関西人のたわ言《2005年》 ←2004年2006年→

2005/08/06 誰が悪いのかではなく、そもそもが間違い
2006/06/23 株主責任の取り方 
2005/06/20 あくなき技術開発こそが重要
2005/06/13 未だに犠牲を押し付けられる沖縄
2005/05/09 世界秩序を混乱させたヤルタから60年
2005/04/12 判りやすく言えば嫌がらせ
2005/03/09 保護主義だけでは説明できない日本市場
2005/01/26 システムを守るためという美辞麗句
2005/01/18 技術を極めないところに進歩なし



 誰が悪いのかではなく、そもそもが間違い 2005.08.06(土)
 言わずもがな本日は広島への原爆投下から60周年の日である。早朝より広島の平和記念公園では記念式典が行われ5万5000人が参列。私もテレビを通して参列した。秋葉広島市長や小泉純一郎内閣総理大臣も私と共に出席し、午前8時15分に一斉に黙とうを捧げる。
 秋葉市長による平和宣言では「核兵器廃絶と世界平和の実現にのために努力を続ける」と決意が示され、核保有国はもとより日本政府に対しても「しっかりやれ」と強い玉が投げられた。広島市は全核保有国に対し式典に参加を呼びかけたが、参加したのはロシアだけであり、かの将軍様の国はシカトという有様である。
 直後に演壇にたった小泉首相が「しっかりやる」と言わなかったことからも判るように、原爆への考え方は投下後60年たった今でも世界で割れている。「原爆は無差別殺戮=ホロコースト」という意見に対して、「早期終結の為には止むを得ない選択」という歴史認識は、決して埋まることはないと思われる。どちらが正しいとか負けた奴がみんな悪いとかそんなことはさておき、意識ある方々は「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた原爆死没者慰霊碑を見てもらいたいものである。戦争は「誰が悪いのか」ではなくそもそもが「間違い」なのである
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株主責任の取り方  2005.06.23(木)
株主総会  4月末に大規模な列車事故を起こしその後の対応のまずさもあり、ある意味過剰にマスコミに叩かれた西日本旅客鉄道(JR西日本)の株主総会が本日行われた。この総会に参加するべくホテルの送迎バスの出る大阪駅北口に回ると、既に長蛇の列が出来ており、その列に対してテレビクルーが取材をする、赤い鉢巻の軍団が随分昔の事件についてビラを配る、社員が必死の誘導をすると大変な状況であり、この時点で早くも本日の総会がただものでは無い片鱗を伺うこととなった。
 会場は500人や600人では効かない人数が集まっており大入りである。午前10時きっかりから総会は始まり、議長の選任を行った後、開会宣言の前に社長が冒頭の挨拶で脱線事故に触れ、社長自ら黙祷の動議を宣言するなどて、いつにない総会が始まる。業績概況の説明やら決議事項説明は順調に終了し、採決前の株主質問が始まったのは10:40ごろであった。
 後方で「動議だ!議長!」といきり立つ方々が多くいらっしゃり、荒れ模様が予想されたが暴れる人は少なく緊張した時間が過ぎる。質問時間が1時間を過ぎたころから、徐々に「質問」という名の「意見陳述」が聞かれるようになり、だらけてきたが会社側は何かを意識しているのか質問を途切ることもなく延々と意見陳述が続く。
 「日勤教育はまちがっとる、改善せよ」という至極まっとうな意見というか質問はまだしも、「今回は増配でなく株主は配当を返上すべきだ」「犠牲者に寄付する基金を作れ、私は配当金をそこに投ずる」などと正義感を振り回し悦に入る方が多くいらっしゃり、あっという間に3時間が経過。
 偽善的な方々はともかく、多くの株主の気持ちは、議案自体がプラス議案であることから、事故の影響を受けた方々は気の毒であるがこの事故を契機に今後の経営が変わってくれればそれで良いというものであり、過剰に経営を非難するだけの質問や意見陳述にぐったりしていた。そうした状況下で3時間半が経過したころ「経営陣は多くの意見を無駄にすることなく、経営体制を抜本から見直してください」と言う年配の株主の意見陳述があり、過激に騒ぐ株主や偽善的な一部の株主からブーイングが出たが、「わが意を得たり」という多くの一般株主から賛同の大拍手が起こる。そしてしばらく後、会社側も「審議出尽くしの為採決したい」と提案を行い、怒涛の拍手と議事進行の声に後押しされ無事に決議を行い、総会は3時間40分で終了した。
 私としても今回の事故に対し、具体的には何も出来ないものの何らかの株主責任をとる必要があると考えており、結果として少なくとも会社が今後どう体質を変えていこうと決意しているのか実際に立ち会う必要があると考え、今回の大阪行きを決意した次第。2000人以上が参加する想像以上に長い総会であったが、この総会出席は意義深いものであった。
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あくなき技術開発こそが重要  2005.06.20(月)
 JR西日本が起こした事件は人災の要素が強いが、マスコミの論調は「JRの経営」の全否定であり、訳知り顔の評論家のコメントが無造作に公表され、評論家の質の低さを図らずも露呈する事態が見受けられる。
 ある訳知り顔の評論家のコメントは、国鉄末期の時刻表を取り出して「大阪−京都」間の新快速の到達時間が10分近く短縮されており、この短縮の裏には「無理」が潜むというものであった。あまりにもバカバカしいので相手にする気はないが、国鉄末期には予算が極度に乏しかったために予算配分は中央に集約されており、大阪鉄道管理局には予算がほとんど無く老朽化した車両に鞭打って走らせていたのが原因である。現在は在来線最速列車を走らせており、その程度の短縮などお茶の子さいさいである。
 首都圏では130Km/hで運転する線区がほとんど無く、加えて国鉄末期よりスピード投資がほとんど行われていないので、件の様な滑稽なコメントも出てくるのであろう。「自分の知りうる知識が全てにおいて適切」という思い上がりであり、評論家なりアナリストとしては回避すべき事項である。
 ちなみに言っておくが「数分短縮する為に多大な投資を行うなど意味がなく、スピード重視の時代の間違った考え」と涼しい顔をしてコメントする人が今回の事故以降に増加している。というかマスコミが世論にすべく面白おかしく取り上げがちであるが、数分縮めるために開発した技術が重要なのであり、数分間の短縮は技術の成果に過ぎないのである。
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未だに犠牲を押し付けられる沖縄  2005.06.13(月)
 本日は、沖縄空港傍の海軍豪で旧海軍大田司令官らが自決してから60年目の日にあたる。沖縄県豊見城市の旧海軍司令部壕では慰霊祭が開かれた様子。現在から考えれば想像できないほどローテクの日本軍は、今と比べて少し不便な装備の米国に囲まれ、司令官の大田実少将以下約4000人がこの地で自決したとされている。
 海軍豪には2度行ったことがあるが、豪内にはおびただしい量の自決時の弾痕が残り、その凄惨さ以上にこんな狭い場所に数千人が居たのかと言う驚きを感じた。壁には本部の本島南部への撤退命令を拒否し、自決を前にして太田司令官が海軍次官あてに打電した「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」という電報が書き記されている。
 帝国陸軍はこの後も南部に陣営を移しながら応戦し、いわゆる「ひめゆり部隊の悲劇」や「摩文仁の丘の悲劇」を迎えることになる。
 軍部は太田司令官の辞世の打電の後も本土防衛の為に沖縄を犠牲にしたのであるが、戦後も米軍駐留の犠牲を沖縄に強いることになり、司令官の電報「後世特別のご高配」はなかなか実現されないのである。終戦60周年の今年、その辺りのことをきっちりと認識すべき年としたいものである。
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世界秩序を混乱させたヤルタから60年  2005.05.09(月)
ヤルタ会議記念切手  第2次世界大戦の終了は日本がポツダム宣言を無条件に受け入れて降伏した8月15日である。
 アメリア合衆国が究極の無差別攻撃である原子爆弾を投下したのは8月6日と8月9日、日ソ中立条約が有効であったにも拘わらず一方的に旧ソビエト連邦が破棄して中国東北部(旧満州帝国)に攻め込んだのが8月9日、一気呵成で千島列島、樺太、北方領土、朝鮮半島北部を根こそぎ占領したのは無条件降伏以降の事件であり、降伏前後の一連の動きを看過するのは難しい。
 米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、ソビエト連邦スターリン首相のヤルタ秘密会議は半年以上さかのぼる2月4日であった。史実として伝わるところによれば、既に東西陣営の溝は深まっており、戦後の世界体制を開放国の立場から考えるのは困難であったであろう。別にどうこう言うつもりも無いが、戦後の朝鮮半島問題、イスラエル問題、ユーゴスラビア問題を、現在に至るまで揉め続ける形にしたのは結果的にヤルタ会談での東西の駆け引きである
 戦争などと言うものは所詮国力の誇示であり、利害関係の行き着く先は傲慢な戦勝国間の無難な手打ちである。極東軍事裁判(いわゆる東京裁判)では、本来裁くべき罪人が存在しておらず、裁判自体が不成立であったものを後から出来た法で裁き、法の後に起こった戦勝国側の大罪をもみ消したという強引な捻じ曲げが記録に残っている。
 人に迷惑をかけたことは謝罪し償う必要があるが、だからと言って自らが受けた被害の保障などを相手方に表明できないということは無いはずである。反省するのは大事だが、勇気を出して発言するのも重要である。今年はそんな60周年になることを祈りたい。
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判りやすく言えば嫌がらせ  2005.04.12(火)
つくばエキスプレス  東日本旅客鉄道(JR東日本)は7月9日からの改正ダイヤを発表。 目玉と言うよりも「それだけです」と言う内容は常磐線のダイヤ改正である。リリースでは、朝夕の通勤時間帯の特急を増発するほか、日中には最高時速130km運転の新型車両(E531系)を使った「特別快速」を新設し、上野-土浦間の所要時間を16分縮めて55分とするらしい。
 常磐線の使い勝手を改善するためというのがお題目であるが、狙いは、東京・秋葉原と茨城県つくば市間(58.3km)を最速45分で結ぶ「つくばエクスプレス」の開業を8月に控えていることに対する対抗策であることに間違いはない。そもそもつくばエクスプレス(TX)は、混雑が著しい常磐線近郊地区の混雑緩和を目指し開発が行われ、最近まで「常磐新線」と呼ばれていた。
 ところが国鉄は民営化してしまい、東日本地区の地盤を引き継ぐJR東日本は常磐新線開発から足を抜き、常磐新線は地元自治体などが出資する第3セクター会社が行うこととなった。
 そもそも混雑緩和を目指して計画された新線であるだけに、つくばエクスプレス開業により常磐線の乗客は1日10万人減る見通しであるが、JR東日本は混雑緩和よりも収益源の減少を食い止めるべく、虎視眈々とダイヤ改正を練りこんで来ている。
 常磐線競争において、路盤整備を怠ってきたJR東日本は歩が悪く苦戦を強いられるのであろうが、これまで混雑緩和の抜本策を検討せず、この段になって対応策を打ち出す会社の未来は厳しくのが当然である。旅客が減らないことに胡坐をかいていると、パラダイムシフトが起こったときにどうなるのか、見定めてゆきたいものである。
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保護主義だけでは説明できない日本市場  2005.03.09(水)
 世界の常識と日本の常識が異なることは良くある話であり、どちらかと言うと日本のやり方が「優秀ではない」という感じで使われることが多い。西欧列強の国々が資本力に物を言わせ、進出した先で自国流を押し付けることもよく聞く話である。
 これまで西欧諸国が、通信、建設、金融、流通などの分野で日本に門戸を開放せよ脅迫迫ってきた事は有名な話であるが、うまく行っているのは金融ぐらいのもんであり、その他はたいした成果も出ていない。
 日本の「その日に食べるものを毎日購入する」という購買スタイルは、かの国の方々からは奇異に映るらしく、「我々の合理的なやり方を知らない日本人はとても気の毒」という余計なお世話崇高な思想により、数年前フランスからスーパーが日本にやってきた。いきなり大手イオンのお膝元である幕張に出店し、次いで西洋かぶれし易いプチブルが集まる南町田に出したまではなかなかの戦略であったが、その次の光明池、狭山は厳しい選択である。その後の箕面でやや挽回するが、その先の尼崎、東大阪で撃沈である。誰に立地を相談したのか存じ上げないが、あまりにも無謀であり、お得意とする合理性はあまり感じられない。
 日本の市場の閉鎖性、卸との関係などをどうこう言う前に、「人間の3大欲求に関する所を攻めるのは実に難しい」と言うことを勉強してもらいたい。いつでもリベンジお待ち申しあげております。
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システムを守るためという美辞麗句 2005.01.26(水)
 「飛ばし」や「簿外損失」の処理を引き金に4大証券の一角であった山一證券が自主廃業を選び破産申請をしたのは1997年の勤労感謝の日の連休中のことであった。破綻時に「社員は何も悪くありません」と言う、有名であり胸打つが基本的に間違っている台詞を吐いた野沢正平社長も、現在は某証券の社長に返り咲いており、経営を引き継いだメリルリンチ日本証券も既にリテールから撤退している。最後まで山一の名を残していたSG山一投資顧問も合併によりその名を変えてしまっているなど、金融再編が著しかったこの8年で、山一は完全に過去のものになってしまった様に感じる。
 本日、その山一の最後の債権者集会が行われ破産手続きがすべて終了。この2月にも法人登記を抹消する算段と相成った。日本銀行が「システムを守るため」という美辞麗句で貸し込んだ特別融資1兆2000億円のうち1111億円は回収不能となった様子、日銀は政府にゴル活してでも取り返すと自慢げであるが、どちらが負担しても国民負担になるのは確実であり、とてもじゃないが喜ばしい話ではない。
 個人的には、実質的に破綻が見えていたにも拘わらず「自主廃業」という隠れ蓑と、金融システムを守ると言う美名により、銀行が大半を保有していた転換社債を、速攻で利子まで付けて繰上償還した管財銀行と大蔵省を一生許すつもりは無く、私の中の山一問題は、まだまだ終わってはいない
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技術を極めないところに進歩なし 2005.01.18(火)
 旅客機に限らず交通機関の開発の歴史を紐解くと、速さを求める一方で快適性、経済性などが同時に求められてきている。航空機業界も多分にもれず開発を押し進めてきたが、1980年代の大規模輸送時代を向かえにあたり、不思議なことに潮流は「経済性」を殊の外重んじ、速度で勝るコンコルドではなくジャンボJETを選考した。
 日本も航空事情は特殊であり、発着枠の問題で各社とも航空機はジャンボを選択せざるを得ない事情があり世界的に見てもジャンボ比率の高い国となっている。航空機大手のボーイングとエアバスは次世代の大型機として、B7E7とA380でしのぎを削っているが、このたびエアバスのA380が完成。A380は総二階建ての機体で広い客室を誇り、対するB7E7は金属ではなくカーボンで機体を製作することにより、客室内の空気に湿度を持たせることが出来るという点を強調している。
 快適性ではどちらにも甲乙つけ難いが、両社共に「速度」への追求を行わない以上、技術の陳腐化は避けられず、例え乗り心地が改善してもそれは上辺の物にしか過ぎないのではと心配をしている。何しろ羽田空港も拡張が進み、伊丹空港に至っては4発式の機材の入港を認めない方針を打ち出すなど、日本ではジャンボの時代は終わりつつあり、航空各社は今後ジャンボを中型機・小型機に変更してゆく方針。より効率のよい技術が求められる時代となるだけに進歩のない競争に心配が尽きないのである。
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NINUKI.I.M